YUMIKO IZU PHOTOGRAPHY

Faraway46

Faraway: 死の力
佐伯剛(風の旅人 編集長)
2013年10月19日

東京の京橋にあるzeit-foto-salonに、 井津由美子の写真展「Faraway/闇の彼方へ」を見に行った。様々な動物の頭蓋骨の写真は、11×14の大きなフィルムカメラで撮影し、プラチナプリントの密着焼きで制作されたものだ。 デジタル全盛の時代に、敢えて、アナログに徹しきった作品。このような作品を見ると、改めて写真の力というのは、化学反応によって時間の連続性を静止画に閉じ込めることによって生じる、濃密な物質感にあると感じる。

私たちが生きている世界には、デジタル思考の0か1が削ぎ落してしまっている大切な情報が膨大にある。言うに言われぬもの。じっくりと耳を傾け、目を凝らしても、明確にはわからない、けれども、何かとても大事なもの。そういうものこそ、生きていくうえで、実はもっとも大事なものだ。 例えば「死」ということ。デジタル思考で、死を伝えると、「終わり」とか、「何もない」ということになってしまう。でも、私たちが避けて通れない『死』というものを、そのように処理してしまっていいのか。 そのように決めつけてしまうことで、私たちは、生きていく上でとても大事な何かを失ってしまうのではないか。

骨格というのは、実に不思議だ。骨になると、肉の時よりもさらに物質感が増す。肉は、いろいろな意味を纏いすぎている。それらの意味を削ぎ落していくと、物質つまり原子の塊であることがより強く感じられる。その原子の塊は、じんわりと何かしらのエネルギーを放出している。それは、肉体に包まれていると聞き取りにくい声とも言える。その声は、肉体をまとう自分の内側にも響いており、 ”魂の声” といっても差し支えない。

肉体というのは、やがて滅びる宿命であり、それは、人間にはどうしようもない、大いなる事実だ。その事実が語りかけてくるのは、肉を削ぎ落された骨だけれど、その骨は、自分の肉体の中にも歴然とある。骸骨に向き合うことは、自分の中の骨を意識することでもある。 生きている自分の内側から自分に語りかけてくる声を、魂というならば、まさに魂は、自分の骨という原子の塊が発する微妙なエネルギーだとも言える。それゆえ、肉が削ぎ落された骨は、より魂を感じさせる何かであり、だからこそ古代から今日に至るまで、人々は、骨を埋葬してきたのではないか。 人が死んだら、肉体を焼いて、後に残った骨を拾い集めて埋葬することは、習慣化されて当たり前のことになってしまって、そこに深い意味を何も感じないけれど、誰しもその骨に何か特別な思いを抱く。骨には魂がこもっていると、人々は、潜在的に分かっているのではないか。

こうした微妙な感覚、微妙な声を、表現という手段を通じて伝えていこうとする場合、 微妙で大切なものが削ぎ落されてしまわぬように、時間をかけて丁寧に取り組んでいかなければならない。 このたびの井津由美子の巨大カメラで撮影して骨が発している念を封じ込めたようなフィルムを、引き延ばしすることなく、つまり等身大の密着焼きで焼き付けたプリントは、物を写すという程度の意味を超えて、まさに写真という字のとおり、真を写した物質に、限りなく近づいていこうという気迫を強く感じる。

その表現された『骨』の作品「Faraway」を見ることにも、覚悟が必要だ。 しかし、それだけ『死』というものを突き詰めて自分の中に置く事が、生のエネルギーになる。 肉体が滅ぶことは避けられないゆえに、生ある自分の中にも、骨として、魂として、何か永遠性を帯びたものが確かにあることを意識し続けることに、救いがある。 死は、生きている自分の中にも、常にあるもの。そう理解したい。